こっちの方が面白いと思うけど
先ほど、染織家の中野みどりさんとお話して、世の中に溢れている
マダム雑誌、文化教養系雑誌よりもこうやって現役のつくり手同士の
話を公表したほうがずっとみんな深く納得するんですよね、と、いつも
ながらに盛り上がる。
中野さんは、私が知る限りでは最も優れた織物作家さんの三人の一人です。
(それぞれの分野ではそれぞれ私にとっては一番です)
そして、後進にも指導をされています。
以下、会話のダラダラ覚え書き。
(だいたい中野さんの話の編集)
近いこと考えているんだな〜と光栄に思いました。
先日、中野さんは展示会をやって、その反応やお客様とのやりとりで
本物についての伝達にさらに確信を得たそうです。
中野さんの作品ならそうですよね〜!
。。。。。。。。。。
例えば和装系で、いわゆる一流店で扱われているからといってその品質は
約束されたものではない。
お店の看板も、作家の看板も実はアテになんてならない。
しかし、お店が、メディアが、評論家が最もらしいことを並べ立て
それを素晴らしいと言うので、なるほど、伝統技術はこういうのがいいんだ、
と伝統技術に興味を持ち始めの人は
「違和感を持ちながら無理に自分を納得させようとする」
そして、洗脳されて、その伝統の地位や権威的なものに自分も参加するか
やっぱり伝統的なものは良く分らないし気持ち悪い、と離れる。
なんにしても「いわゆるお墨付き系の伝統モノ」は分野を問わずに
「何か得体の知れない、いかがわしい、現代とは違う時間が悪い意味で
流れているもの、常にこちらが歩み寄って理解しなければならない
岩のような存在」
みたいな感じを持っている。
が、本物の本物はそんなことはない。
初めての人ほど、あっさりとそれを理解する。
本物は分りやすいのだ。
逆に本物だから、分かりやすいのだ。
そこに安っぽい物語などなく、ただそれは素晴らしい波長を発し続ける。
安っぽい物語などとは全く違う「新しい物語を創造する」わけだ。
いわゆる権威としての伝統に「毒された人」「その道の商売人からすれば
最も良いお客様」たちのような、
「間違った知識にまみれてモノを素直な眼で見られない人、眼と感受性の
濁ってしまっている人」
は、排他的で自分やお師匠さんからの知識、経験を観て、目の前のモノを
見ない、感じない。
逆に、お墨付きでないものに感動してしまう自分自身を否定さえしたがる。
こんなものに感心する自分はおかしい、と。
だけど、たまに、本物に対面することによってその間違った知識や経験
が邪魔なものだと理解する人もいる。
(いわゆるお墨付きではなく、本物ならば)
。。。。。。。。。。。。
本物を手にしたいなら、実はそれは簡単なことだ。
「何か一つ、本物を手にすること」
「そうすれば、それを核にして本物が集まる」
そういうことだ。
とても気に入った、誠実な仕事がされた本物を手にする。
それに何か合わせたいと思う。
本物以外は波長が違うので弾かれる。
自然に良いものだけが集まる。
(値段の高低とか、希少さや、権威とかではない)
だから、基本的に言えば本物を理解しようなんて努力も必要ないし
ただ知識を得るための勉強も必要がない。
(つくり手とか、販売する人は勉強が必要だし、また買い手も
買い手としての見識を得るための勉強や経験は必要だけども、実は
「その知識を超えて本物はある」ということを体感することが
最も重要なこと)
「本物を分かりにくくしているのは、元々持っている雑知識である」
ということ。
本物には色でもなく、組織でもない、素材でもない独自の波長を持っている。
その波長に合うものを選べば良い。
それは自然に集まる。
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ものつくりでも、同じく、雑知識は邪魔にしかならない。
「目の前の仕事の移り変わりを常に観察し、見極めろ」
ということを指導する。
しかし、最近の子はレシピを与えなければ動けない。
「5分浸けなさい」と言われると、染めるための糸ではなく
「5分を測るために時計しかみない」
情報や知識ばかりを観る、マニュアルを観ることばかりに偏り
自分が目の前の素材、自分の制作に自分が参加せずに、自分の
制作なのに、誰かからの知識、マニュアル、レシピだけを観て
しまう。これは制作ではない。
(もちろん、マニュアルの否定ではない)
モノに対面するための正しい見識を教えたいと思う。
紬織りをするにしても、結局そこに行き着く。
専門バカは多い。
しかし、それが研究家や継承者として尊敬されていたりする。
しかし、そういう人たちの多くは自分の分野しか分からない。
濁りのない観察眼を持っている人は、別分野のことも善し悪しは分かる。
そういう見識が制作には必要だ。
そうでなければ、公募展に良くあるような
ただの師匠の写しのような作品ばかりになってしまう。
(もちろん、伝統工芸品でそのスタイルの伝承が必要な場合もある)
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自分が着たいと思うものをつくるが
自分のためにはつくらない。
非売品など、信じられない。
それは自分の成長を否定すること。
自分がつくり出したものは、自分から表に出た瞬間から作者を超えて
そのモノ自体の個性を持ち、それを手にした人と新しい関係を築く。
その邪魔をしてはならない!
その増幅こそが創造であり、作品の本質だ。
その時にこそ、制作者の個性が開花する時なのだ。
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現代において、日本の伝統文化や和装文化は日本人にとっても
サブカルチャーである。
また違う見方をすれば、サブカル化しているからこそ、現代では
守れる伝統文化もある。
それを関わるものたちが理解していなければ終わってしまう。
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意図が見えるのは意図が機能していないから。
狙いがキチンとヒットして、ちゃんと収まっていればそれは
意図でも偶然でもない「生き生きしたそれ」になる。
それは精神論ではなく実は技術論なのだ。
技術をないがしろにしている人は、そこを精神論にしたがる。
また、技術偏重の人ほど、そこを精神論にしたがる。
どちらも技術をキチンを見据えてないから。
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今思い浮かぶ「そうだそうだ!」と盛り上がったところをちょこっと
書いてみました。
文章にしてしまうと私の文章能力ではオチがあり過ぎてその臨場感が
お伝え出来ないのが残念です。
それと、私が書いてしまっているので、私が普段言っているようなことの
繰り返しみたいになってしまってますが、実際には中野さんの言葉で語られる
それは独自のものがあります。
うーん、動画配信でやりたい(笑)
こちらで中野さんの作品や運動をご覧になれます。
いろいろ広がるといいと思います。
覚え書きでバラバラのままですみません。